言語インフレーション

 

こんにちは。山口市中河原町の司法書士山本崇です。私は山口県中小企業家同友会の山口支部に所属しているのですが、県の同友会にCOMPASSという機関紙があり、その原稿を依頼されたので書いてみました。せっかくなのでこちらにも掲載いたします。なお、著作権は私にあります(たぶん・・・)。今回も仕事にはまったく関係ありませんがお付き合いください。次回こそはかならず仕事に関するブログを書きます!!

—————  以下、原稿  —————

世の中には先生と呼ばれる人々がいる。一番わかりやすいのが教師と医師である。ただ、この二者のほかにも先生と呼ばれる人はいる。政治家や作家など枚挙に暇がない。私は司法書士として個人事務所を開いているが、私なども取引先の金融機関の担当者や宅建業者などから先生と呼ばれることはある。ただ、私自身は先生と呼ばれることを極度に嫌っている。私の個人事務所には二名の事務員が所属しているが、いずれも私のことを先生と呼ばずに、山本さんと呼んでいる。いや、私がそう呼ばせている。これは当初、事務員にとってかなり違和感を覚えることであったに違いない。もしかしたら、苦痛ですらあったかも知れない。ただ、私は今後も事務員に私のことを先生と呼ばせるつもりはない。

大学院に通っていたときと大学院を中退した後1年くらい、合計5、6年ほど大阪の学習塾で講師をしていたが、このときは塾の生徒たちから先生と呼ばれていた。そして、そのことに何ら違和感を覚えなかった。ただ、その頃から、教師や医師でもない人が世間の人々から先生と呼ばれているのを見るにつけとても嫌悪感を抱いていた。よく、学校に通うひねくれた児童、生徒たちが、学校の先生たちを馬鹿にして、先生なんてただ先に生まれただけじゃないかなどと吐き捨てる。これはまったくの見当違いであると私は思っている。先生とは「先」に「生」まれただけの人ではない。私にとっての先生の定義とは、世の中の人々の「先」に立ち、人々が進む道つまり「生」きていく道を教えてくれる人、言い換えるならば、生き方を教えてくれる人のことである。そうであるから、世の中のいろいろな職業の中で先生と呼ぶべき人は私にとってはおのずと教師しかありえないことになるし、生きる道を教えることができる人であれば、必ずしも教わる側の人よりも、先に生まれている必要はないと思っている。

文藝春秋のたしか昨年1月号だったと記憶しているが、作家の塩野七生氏と医学博士の新見正則氏の対談記事が掲載されていた。その中で塩野氏は、世の中で先生と呼ぶべき人は教師と医師のみだと述べており、対談相手の新見氏に自分のことを先生と呼ばないでほしいと言っていた。私もその考え方に近いところがある。ただ、私はやはり先生と呼んでいい人は教師のみであると考えており、医師のことを先生と呼ぶのは間違いであると思う。もっとも、あまりそうした自分の意見を押しとおしすぎると何かと面倒なこともあるため、私自身便宜的に医師のことも先生と呼んではいるのだが、これは私にとってはあくまでもやむを得ない措置に過ぎない。上記で述べた私の中での先生の定義から考えると、本来の意味での先生というのは教師というよりも宗教家であるべきだろう。ただ、元旦やお盆に神社やお寺にお参りするような一般的な日本人であっても、通常神や仏を信じている人は極めてまれであるし、むしろ自分は無神論者、無宗教者であると認識しているだろうから、日本人がふだん宗教家と接する機会は非常に少ない。そうすると先生という単語がまったくの死語となってしまい、それはそれでもったいないため、宗教家が神学以外の学問も教えていたという歴史的な事実を踏まえて、学校の教師を先生と呼ぶことはなんら問題ないと思っている。

宗教家や教師のことを聖職者というが、このことからも先生という言葉あるいは職業は非常に崇高な立場にある人々に与えられた称号であり、政治家や単なる専門家に過ぎない司法書士などを先生と呼ぶのは、先生という言葉の価値をさげることになる。かつて私が師事した仏語学の講師は、こうした現象を言語あるいは言葉のインフレーションというのですと言っていたが、私としては、先生という言葉が、言語のインフレーションを起こさないよう切に願ってやまない。

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